2011年1月28日金曜日

はねかえりの角度

浜野さんの工場の一階。
おそらく一番大きいであろう機械がある。
鉄やスチールの板を切り、正確な位置に穴をあけたり、場合によっては削ったり。
 
後ろ側にも、巨大な機械が。
こちらはレーザー加工と言われるもの。
スピードが、速い。
このスピードは、何なのか。
一番驚くのが、一つの加工を終えてから、次の加工する部位への移動する、その初動が速いのだ。
考えていたら決してたどり着けない。
無駄が、ない。
 
そして、このフロアにもう一つ存在するのが、「曲げる」機械である。
90℃に、曲げる。
一見、とても地味な作業に見えるが、とんでもない。
あなどるなかれ。
90℃が90℃でないということを、今回初めて知った。
鉄でもスチールでもそこには、弾力がある。
 
つまり、弾力を想定して、曲げるのだ。
90℃にするには、90何度に曲げておかなければならない。
やや多めに曲げたぐらいでちょうど90℃になるのだ。
その、「やや」はどれくらいの、「やや」なのか?
 
はねかえりを、想定する。
 
思わず、自分の反抗期を想像した。
親からしたら手がつけられなかったろうに。
はねかえりが、強すぎて。
親の想像以上だったことは詫びておきたい。
 
人間よりも鉄の方がある部分、素直かも知れない。
これぐらいは、はねかえらせてくださいね、と無言で伝えているのだ。
その鉄の言を、ちゃんと聞ける職人が、いい職人なのかもしれない。
 
はねかえり
鉄はかえる場所を知っている。
この性質を見つけた人間は、はたしてかえる場所を知っているのだろうか?
 
 
 
 
 
 
 
 

2011年1月20日木曜日

絞り

金型で扱われる作業の一つに、「絞り」という技術があるという。
「絞る」、と聞くと普通はぞうきんであったり、生ジュースであったりを連想してしまうのだが、こちらの絞りはかなり硬質である。
 
タバコを吸われる方にはなじみの深い、ライター。
そのなかでも、ジッポライターと言われるもの。
外側が鉄で出来ていて、中に油を注いで置いて、カシャッと開くと火がつくというものだ。
 
ライターと、絞るという言葉がどうにも結びつかなかった。
 
どういうことなのだろう?
まず、一枚の鉄が金型によって深い器のように変形する。
つまり、そのものの質量は変えずに、引き延ばす。
表面積が一度の加工で圧倒的に広がる。
 
さらに、その器状のものを、深くする。
そのためには別の金型が必要になる。
さらに深める。もう一度。
私が教えて頂いた絞りの工法では、少なくとも4回は絞る。
オレンジで同じようなことをしたら、おそらく皮がパリッパリになっているだろう。
 
一番不思議だったのが、何故割れてしまわないのだろうか、ということだった。
鉄の強度、絞りの角度、全てが計算されている。
 
その中でも、特に角度の強い部分はやはり若干のゆがみが生じることもあるらしい。
そのゆがみを修正し、つるっつるのライターに仕上げていく。
絞りは、絞りっぱなしでは絞りにならないのだ。
 
目が、届く。
手で感触を確かめる。
あらゆる角度から、のぞく。
もう一度、確かめる。
 
何気ないことの中に、絞りを絞りたらしめることが在る。
 
金型で、絞り、
五感で、絞る。
 
 
 
 

2011年1月15日土曜日

やすりがけの加減

先日、岩井さんのところで色々な技術を手取り足とり教えて頂いた。
教えて頂いてすぐ出来るのならば、なにも問題はないのだが、とんでもない。
一つ一つがそれぞれ簡単に見えて一つとして簡単なものはないのだ。
 
そのうちの一つ、やすりがけ。
その名のごとし、やすりをかける。
昔、図工や技術の時間に木をやすりがけした事はあったが、鉄は初めて。
 
基本は、ぶれないこと。
まっすぐ押して、まっすぐ引くこと。
これだけのことが、かなり難しい。
 
当たり前だけれど、手だけでは動かない。
からだの動きをそのまま真似てもやすりはぶれぶれである。
下半身から伝わる、手と足の微妙な連動。
必要な集中。
必要量だけ、こめていく。
 
うっすらと、丸みをおびていた面が徐々に平面に変っていく。
いくらやっても波打ってしまっているその面を、最後は岩井さんに仕上げて頂いた。
 
「手加減」
という言葉が良く合う。
手加減は、からだ加減である。
 
 
 
 

2011年1月14日金曜日

延長する感覚

今回お世話になっている町工場の一つ、浜野製作所。
たまたま昨年末の納会にお邪魔したときのこと。
御年約75才、この道一筋という方が、くしくも引退される日でした。

ご本人は感極まってことばにならないご様子。
従業員の皆さんからの贈り物が粋でした。
鉄(ステンレス?!)でできた「お疲れ様でした!」の額。
工場の技術と敬意のたっぷりこもった手作りの贈り物。

そういえば自分も小学校以来同じ筆箱を使っている。
すでに27年物。
スチールでできているので机から落としたり、角にぶつけたりし、その度ひん曲げながら使ってきた。
結構もつモノである。

今回のフリオコシ。
鉄やステンレス、銅や真鍮など、比較的固いと思われる素材だが、どれも微妙に固さ・性質が違うようだ。
手の力で曲げられないだけで「固い」のひとことで片づけてしまいがちだけれど、それは大間違い。
違いを感じるには?

前回、岩井さんの工場で少しだけ機械を触らせていただく。
機械を伝って手元に来る感覚は、まさに異次元。
自分の力だけで削っているわけでは決してないのに、自分の力そのものが素材にそのまま作用していくのを感じる。

人間の皮膚感覚は不思議だ。
感覚が、延長する。
その微妙な違いをはっきり認識する力は、職人に限らず万人に必要なものかもしれない。
こちらの思っている以上に回りに作用していくことは結構多い。
どれぐらい自覚的に感じていられるだろうか?

2011年1月12日水曜日

けっとばし

今回のすみだフリオコシ。
お世話になっているのは、墨田区八広に工場のある、岩井金属金型製作所と浜野製作所の皆さん。
 
どちらも精力的にお仕事されているのですが、両方の工場にあったものの一つに、「けっとばし」というものがありました。
けっとばし、その名のごとく、足でけっとばすことの出来るように足元に踏み台のようなものがあります。
これは、蹴るのが目的でなく、蹴る力をテコの原理のように利用して、手元にある部品の型を抜くというもの。
かなり昔からあるもののようで、工場の始まったころから使われていたようです。
 
その形がかなり独創的で面白い。
機械のようでいて、ひとがたのようにも見える。
けっとばしの部分は男根のようでもある。
 
ふとむかし、祖母が古いミシンを大事に使っていたのを思い出した。
手作業と、機械が静かに連動していた風景。
そこには、違和感よりも一体感の方が強かったような。
 
今も使えると言うその「けっとばし」
触らせてもらったとき、これを作った人間の自負が沁みてきた。
 
最近はデジカメもコンピューターも早く壊れることを想定しながら作っているかのような時代に、長く使えることを当たり前としてきたモノのことばはかなり明確である。
2011年のいま、その「けっとばし」のことばは、どう受け取ればいいのだろう?
 
 
 
 

おこす

今回ご協力いただいている墨田区の町工場、岩井金属金型製作所の岩井さん。
金型をおこし、そこから様々なものを制作していく。

岩井さんの工場にはじめてお邪魔した時にまず驚いたのが、工場を埋め尽くすように存在する機械の数々。
私には、それぞれの機械が何のために使われるのか、皆目見当がつかなかった。
岩井さんが、一つずつ丁寧に説明して下さり、少なくともどういうことが出来るものなのか教えてもらう。
大ぶりの巨大な機械が、何かを作りだしてくれる頼もしい存在に思えてくる。
不思議だ。

岩井さん、今度ご紹介する浜野さん、みなさん伺うたびに親切に接して頂き、町工場そのもの、働く人たち、工場の機械たちへの限りない愛情が伝わってくる。

私たち作家が、何を作り共有しあえるのか、こちら側で勝手に決め込むよりもまずは教えを乞い、学ぶことから始めてみようと思う。
すみだフリオコシ、第一回は、ずばり 『おこす』である。

例えば、「金型をおこす」 
おこすという言葉は何かを作る、計画するということだけを表すのではなく、もう少し深い意味合いがありそうである。

かつて、金型は立派な財産であり、工場の夢や未来を象徴する希望のようなものだったという。
つまり、「金型をおこす」という言葉には、ただ物理的に金型を作ることの奥底に、工場の、家族の覚悟や意思に近いものが反映されているのかもしれない。
そういうスピリットに触れながら作品づくりをさせていただくのはかなり幸せな作業だと思う。

作品そのものはまだ、制作中ですが、少しずつ工場の雰囲気や制作過程をリポートしていきます。